『ブラック・ラグーン』

メイド話だけはよかった。やっぱりこのスタッフってゲラゲラ笑いながら人を撃ち殺すような作品を作れるタイプの人たちではないんだなと思うけど、そういう人たちなりにうまく原作を消化できていた。原作以上にターミネーターな感じが強調されたメイドとか、バラライカの「だってヤなんでしょ?」のあたりの妙なかわいさとか、それまでのように原作の表層をただなぞるだけの演出とは違い、独自の解釈が感じられて面白かった。


でもそのほかはやっぱり全然ダメだったなあ。まず声がもう。すれた喋り方がさっぱり板についてなくて、ずっと「歯が浮く」感じがつきまとってイライラした。声優のことはさっぱり分からないんだけど、洋画の吹替えとかの経験がない人たちばっかだったんだろうか。


でもそれ以上に問題なのが、とにかくレヴィたちがぜんぜん楽しそうに見えないこと。原作での彼女たちは、追ったり追われたり撃ったり撃たれたりの海賊稼業を、目いっぱい楽しんでる。ロックはそういうのに憧れて日本での平穏な暮らしを捨てるわけでしょう。その憧れに共感できるほどにレヴィたちが魅力的に描けてないわけよ。


確かにこの作品はそういう冒険のロマンを描いているだけではなくて、そういう世界にもシビアで醜い現実が存在していること、アニメ版の台詞で言うところの「誰の足元もドブの泥に漬かっている」ことにロックが直面していく物語でもある。アニメ版の重心はそっちに置かれているのだろうし、その点はよく描けていると思う。
ただ、それだけを描くことにいったいどれほどの意味があるのか。自分の足元がドブの泥に漬かっていることを自覚したうえで、その生をいかに肯定していくか、それが問題なんじゃないのか。


ロックにとっては憧れの対象である荒くれ者たちの世界も、レヴィにすれば「どこを取ってもクソの山」だ。安っぽいロマンなど通用しない、容赦ない現実だ。普段は彼女もその事実から目を背けて楽しくやってるけど、自分の足元を直視するとどうしようもないほどの虚無感に囚われてしまう。
そんなレヴィを救うのが、ロックの「ロビン・フッドがいないなら、ロビン・フッドになればいい」という言葉だ。はじめからロマンに満たされた世界なんてどこにもない。ロマンを求めるならば、強い意志によってそれを自らが具現化するほかにないのだ。


そういうところを描いているからこそ、『ブラック・ラグーン』は傑作なのだ。「ハリウッドの安ピカレスク」のような痛快なアクションを描けているからでもなければ、「どこを取ってもクソの山」なシビアな現実を描けているからでもない。安ピカレスクの安いロマンが、クソの山を生きていかざるをえない連中の救いとなる、そこがグッとくるわけですよ。
だから安ピカレスク的なロマンが一向に魅力的に描けてないのは、この作品にとって致命傷と言わざるを得ない。


もっとも原作の方も、足元の泥を見つめすぎていささかおかしい方向に進んできている気がしないでもない。
たしかに4巻までのロックは、二つの世界の狭間に立っているつもりでいながら、実際にはただ二つの世界の傍らで傍観しているにすぎない、何も背負っていなければ何を選んでもいないと、そう言えるかもしれない。バラライカのようなもっとシビアな現実を生きている連中と渡り合っていくためには、5巻のような展開も必要なのかもしれない。しかし「俺はもう死んでいるのさ」という結論が本当にそれでいいのかは、きわめて疑問だ。そんなことを言うような人間になるために、彼は日本での生活を捨てたのか?


話は思いっきり飛ぶが、足元の泥を見つめすぎておかしくなってしまった作家として、宮崎駿のことを思い出してしまう。ナウシカもまた、二つの世界の狭間に立つことを選んだ存在だった。漫画版『風の谷のナウシカ』も前半は生を肯定する力強い意志に満ちた物語だったが、やはり同じように「狭間に立っているだけというのは実はもっとも無責任な選択なのではないか?」という疑問に突き当たって、次第に虚無感に囚われていく。
ラストは一見それを突き抜けたように見えるが、「生きねば……」と義務感だけで生きるナウシカはやはり、まだ虚無感に囚われているのだ。そしてそれ以降宮崎駿は、かつてのような力強く生を肯定する作品をいまだに作れていない(ハウルでちょっと戻ってきたかなとは思うが)。
それが物語作家として、正しいことなのかどうか……。