ゲーム性と物語性

こないだチャットで話した内容を簡単に整理しておく。
ゲームに物語性は必要なのか、というかゲーム性と物語性は対立するものなのかという話。


ゲームデザイナーのグレッグ・コスティキャンは『コスティキャンのゲーム論』の中で、「意志決定の必要性こそが、ゲームの本質なのである。」と述べている。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/babahide/library/design_j.html
一方、映画シナリオライターのシド・フィールドは『The Screen-writer's Workbook』の中で、「ドラマは葛藤である」と述べている。
ドラマとは「主人公が劇的欲求を達成するために障害や葛藤に直面し、それを解決・克服していくもの」であり、
ゲームとは「プレイヤーが勝利条件を達成するために障害や意志決定の必要性に直面し、それを解決・克服していくもの」だ。
つまりこの両者は、実は構造的にほぼ同じものなのだ。※1


ではなぜしばしば、ゲーム性を重視する(と称する)ゲーマーは物語性を重視する(と称する)ゲームに苛立ちを感じ、「ゲームに物語なんていらねえんだよ!」といった感情的な発言をするのか。
こういった場合にしばしば槍玉に挙げられるのがFFシリーズだが、そこで問題となっているのはたいてい、物語が勝手に進められてプレイヤーが置いてきぼりにされてしまうという点だ。


ゲーム=プレイヤーとして能動的に進めていくもの
物語=観客・読者として受動的に鑑賞するもの


とすれば、確かに両者の立場は対立するしかない。
しかし物語と受け手の関係とは、本当にそのような形でしか成立しえないものなのか?
否。それは小説や映画といった近代的な物語の形式に呪縛された考え方でしかない。
たとえば音楽は、「聞く」という楽しみ方もあるが、「歌う」「演奏する」「踊る」という楽しみ方もできる。
ゲームにおいて実現されるべき物語と受け手の関係性とは、それと同じような、主体的な行為を通してのものなのではないか。
問題とすべきはそこであって、ゲームに物語性を持ち込むこと自体の是非ではない。


さらに言えば、高い物語性はゲーム性の向上にも寄与する。
コスティキャンの論に従うならば、ゲーム性の高さとは即ち意志決定における葛藤の複雑さと緊張感のことだ。ゲームの登場人物にキャラクター性やドラマ性を付与することは、それらを向上させるのにきわめて効果的な手段だ。『セプテントリオン』を見よ。


別に「ゲームで感動したり泣いたりしようとは思わねーよ」という人がいるのはまったく構わないのだが、ゲーム性と物語性を対立的なものとして、しかもその内実を問うこともなしに語る言説が二十年一日のごとく横行しているってのはムカツク。まったくもって非生産的だ。ケッ。


かなり補足したけど、まあそんな感じの話をしたのです。


※1 まあこれはかなり「近代的」な物語観・ゲーム観ではある。しかしその作品の中で目指されている物語的構造とゲーム的構造がどんなものであれ、一致してさえいれば問題はないと思う。